憲法記念日の裁判員制度絡み社説は、山陽(岡山)、福井以外に
京都新聞(京都新聞社説はHP上では翌日公開)に掲載されました。山陽、福井は憲法問題としての一環だったのに対して、京都新聞は裁判員制度に絞った内容なので取り上げたいと思います。京都新聞に限らず、山陽、福井ともに裁判員制度の違憲性問題について記載されています。裁判員制度が違憲なのかそうでないのか?私は当然のことながらとんでもない違憲政策と考えているのですが、現段階では法的な争いになっていない以上、客観的見地からは「現段階では分からない」です。しかし、重要なのは、市民の立場から
少なくとも「裁判員制度は憲法違反ではないか?」と考える権利はあるということです。その権利さえ認めないのでは、そもそも民主主義政治など成り立つはずもありません。
権力側が総与党化して国家に都合の良い政策を一方的に市民に押し付けるようなやり方は、まさしく近隣の独裁国家と全く同じです。
その意味では、総与党化した裁判員制度推進派メディアの一角である京都新聞が「迷惑だ、というのが実感だろうか。そうした空気を引きずったまま、裁判員制度が始まることに、懸念を覚える」と述べるのは彼らにとっての途方もない危機意識の表れともいえます。「(国民が迷惑だと考える)空気を引きずったまま」始まればどんなことになるか?残酷な写真を見せつけられて人格崩壊を引き起こすとか、裁判員任務に時間を取られて本業が狂うことで人生そのものが破綻しかねないリスクを考えると、そんなものに嫌々やらされるくらいならば権力と戦うという国民が続出することが考えられます。すなわち、
全国的な違憲訴訟多発です。裁判員制度に加担させられることへの人生リスクを考えると、訴えの件数も相当なものになることが予想されます。この訴訟については、訴えが認められるかどうかというよりも、制度に対する違憲訴訟が全国的に続発すること自体が国民的不信世論を高めることにつながります。しかも、これは単なる裁判員制度への不信世論にはとどまりません。8割の国民が嫌悪し、かつ専門家間でも違憲論が根強い政策にも関わらず、国会を含めて権力者・有識者が総与党化したがゆえに一切その世論を聞き入れずに押し通す、これは政治のあり方そのものへの国民的不信が頂点に達することにもつながりかねません。折りしも世界的大不況のこの時期、こんな国民的不信の根強い政策に投入する税金があるならば社会保障や経済政策に使ってくれ、という民意は当然の話です。
京都新聞に限らず総与党化したメディアは市民に「裁判員制度は迷惑だ、まして憲法違反だという考えは一切持つな」という態度を一方的に貫いてきました。その理由は、裁判員制度を違憲と考える市民が大半になれば制度自体が成り立たないからです。裁判員制度は基本的に国民全員が裁判員任務適格者であることを前提に法律が作られています。「裁判員任務適格者」となるためには、裁判員制度そのものを批判する態度を一切取らないことが必要条件です。この政策を批判するような態度を取れば、寺西判事が政治的発言で分限された事例からしても裁判員任務不適格者となります。そんな人が一人もいないことを前提に作られたのが裁判員制度であるともいえるのです。無論、メディア関係者も裁判員適格者である前提ですから、裁判員制度を批判することが許されないとなります。
権力側にとって政策批判を一切許さない法律。言い換えれば、裁判員制度はできた時から「絶対」の法律になってしまったのです。これは、日本国憲法と同位、またはそれ以上の最高法規をもう一つ作ってしまったのと同等です。日本国憲法を改正することに関しては憲法上の規定はあります。しかし、それは現行憲法に則った手続きでなければ許されず、その中には国民投票による手続きを踏むことも含まれます。
日本国憲法と同位、またはそれ以上の法規を国会が勝手に作ってしまったともいえる裁判員制度。これは「改憲」よりもっとヒドい事態ともいえます。
裁判員制度については国内総与党化につける薬はないので、
海外への裁判員制度非難呼びかけはこれからも継続します。また、裁判員制度導入の元凶・竹崎博允最高裁長官のクビを次期国民審査でぶっ飛ばすキャンペーンも次期国民審査の期日まで毎日張ることにいたします。実地での宣伝活動は活動広告・
竹崎×ファイル(4枚の大ファイルを組み合わせてください)を持って大衆の前に伝えていただきたく思います。ネット上では下記バナーを貼り付けて下されば幸いでございます。

貼り付け方は下記の通りです(<>の部分は半角に直してください)
<img src="http://www.interq.or.jp/enka/svkoya/blog/enka/xn--fcrpb68l47o056c/images/shinsa200.gif" alt="最高裁長官竹崎博允ヤメロキャンペーン" />